関西学院大学サッカー部に繋がる一貫指導で、楽しく賢く考えるサッカー!

慣れる

おもろい話

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楽しい事をメモしておくと人生が楽しくなると言う。
サッカーに関係あることないこと、楽しかったことや面白かったこと、
心打たれたことなどページをめくってみよう。

スピードに慣れる(1975年西ドイツメンヘングラッドバッハから帰って)

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当時の西ドイツのブンデスリーガのボルシアメンヘングランドバッハのチームで
コーチの勉強をした時、初めのボールコントロールだけ、若手選手と一緒にやら
せてもらっていた。

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若手選手たちの中にはまだレギュラーポジションを取っていなかったアラン
・シモンセンやウリ・シュティーリケがいた。

シモンセンは後にデンマーク人初のバロンドールを取ったが、165cm,
55kg程しかなく細くて折れそうだった。

この小柄で,声も小さく内気で控えめな青年がチームをブンデスリーガの
優勝とヨーロッパチャンピオンに導くとは,つくづくサッカーって不思議
なスポーツだと思う。

またシュティーリケについてはバイスバイラー監督は当時からベッケンバウ
アーの後継者だと断言していた。

その言葉通りボルシアメンへングラッドバッハの中心選手としてブンデスリーガ3連覇、
その後レアルマドリッドのDFの中心としてリーガエスパニョ−ラ3連覇を成し遂げた。

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シュティーリケはまたワールドカップでPK戦が導入
されて初めてのPKを失敗した選手としても名前が刻
まれている。

しかし西ドイツはこのPK戦に勝ちファイナルに進んだ。
PKを失敗して倒れ込むシュティーリケを慰める選手たち
の姿は感動的であった。

そのような選手たちとの鳥かごの4対2だ。

ボールへの寄り、パスのスピード,詰めの早さなど当時の日本では経験の出来ない早さと激し
さだ。
なんとかそのスピードについてゆこうと必死だった。

練習が終わってホテルに帰りシャワーを浴びる時に足の裏を見ると,全面血豆だった。
今まで経験をしたことのないスピードと切り替えの早さで,足の裏の皮が全面ずれてしまい,
出血していたのだ。
なんとかついてゆこうと実力以上に頑張っていたのだ。

日本でも最初の練習だけはコーチや監督も一緒に入ってやることが多い。
日本に帰ってすぐ若手のメンバーに入って4対2をやったら、余裕でボールを回すことができた。
これが「慣れ」だろう。

日本のサッカーがJリーグの発足を機に急激にレベルアップして来たのは,海外の一流選手が
たくさん日本でプレーして,一流レベルのスピードやボールコントロールに自然に慣れた
ことが大きいのだろう。

ゆっくりに慣れる(1988年ジャカルタ、インドネシアから帰って )

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ジャカルタから2年ぶりで帰国し、船便が着いてい
ないので家具のないガランとした我が家へ戻った。
ガランとしていても家は小さくて、元々住んでいた
家なのにえらく狭く感じられた。

次の日、丸の内の本社へ出勤した。

家から満員電車に揺られて1時間半掛かる。
ジャカルタの時は車で事務所まで7分、工場まででも
20分だった。
しかしこんなことはカルチャーショックではなかった。

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東京駅に着き駅から会社まで歩いて5分。

歩いていると違和感がある。何だろう?

しばらくして解った。駅の前の横断歩道を歩いている
周りの通勤途上の人達全員が私を追い越して行くのだ。
出勤ラッシュの人の群れがザーと音を立てて自分ひとり
を取り残して流れてゆく。

インドネシアのたった2年間で歩くスピードが現地並み
のゆったりしたスピードになっていたのだ。

インドネシアの人はゆっくり歩く。暑さのため汗をかかないようにゆっくり歩く。
インドネシア語でゆっくりと言うのは“プーラン プーラン“と言うが正に言葉の感じそのままに
ゆったりとからだを揺らして歩く。

あのおおらかでゆったりとした豊かなインドネシアから帰って、このせかせかした東京でやって
いけるかなと言う不安をしみじみ感じた。

私は、あのゆったりインドネシアが好きです。

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