関西学院大学サッカー部に繋がる一貫指導で、楽しく賢く考えるサッカー!

交通不安全1

おもろい話

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楽しい事をメモしておくと人生が楽しくなると言う。
サッカーに関係あることないこと、楽しかったことや面白かったこと、
心打たれたことなどページを繰ってみよう。

交通不安全 その1

秋の交通安全週間は終わったが交通安全に因んで。

ジャカルタ ( 1986~1987 インドネシア )

私がジャカルタに赴任した頃はジャカルタの交通の状態はひどかった。
車以外の交通網はほとんど無く、その上道路のインフラも全く整備されていなかった。

信号が少なく、道路の両側には溢れかえるような人が群れていた。その人たちが道路のいたる
ところを横断し、車の前や後ろをひっきりなしに横切る。

慣れない私はその度にドキッとして「あっ!」とか「うゎ!」とか叫ぶのが常であった。

運転手は慣れたもので、シフトギアを2速か3速にしてエンジンをうならせて走る。
だからエンジンのうなっているほどにはスピードは出ていないし、アクセルを離したらすぐに
エンジンブレーキで速度が落ちるようにしているのだ。

その頃私は運転手に覚えたてのインドネシア語で繰り返していた。
「私には家族が居る。君にも家族が居るだろう。事故は避けなければいけない。もっとゆっくり、
もっとゆっくり。」

しかし慣れというのは怖いもので2年後には、「もうチョット早く走れないのか?」とはっぱを
掛けるようになっていた。

バンコック ( 1993~1996 タイ )

スピード競争

バンコックの会社の所長と次長の運転手は何かにつけ張り合っていた。
ある日同じ方向に出かけるのにいつも通り競走を始め猛烈な勢いで車を
走らせていた。

競争に夢中になって、とうとう目的地を通り過ぎ「どこへ行く気や?」
と言われ 「あ!」 と絶句した。

この運転手君はいくら注意しても危険運転が直らず、その都度厳しく
注意をされ、何枚も始末書を書かされていた。 
しかしどうしても直す事が出来ず、その後職を失った。

普段はとてもやさしい温厚な性格だったのに、車に乗ると人が変わるのだ。
外国企業の運転手と言うのは現地の人には大変良い職業であったのに。

その頃インドネシアやタイではこのような交通事情から日本人が自分で運転するには危険
すぎるし、又事故があった場合リンチなどの恐れがあったので運転は禁止されていた。

わざわざ“始末書”を何枚も書かせていたのも、もし始末書なしで解雇すると、労働局などに
不当解雇などと訴えられたり、また注意を注意とも感じていない本人が逆恨みをして仕返しを
するというような例もあったからだ。

チェンマイの手押し式信号 ( 2011.2 タイ ) 

手押し式信号

最近、片側2車線で中央分離帯のあるような道路では横断歩道に手押し式の歩行者
信号が設置されている所もできてきた。しかし日本と違いボタンを押すと5秒ぐらいで
信号が変わるので、止まれない車が突っ切ってしまうこともある。

又横断時間も10秒と短く、10,9,8,7と表示が出るので、ボタンを押すとスタートの
姿勢をとり、信号が変わるや否やみんな走って渡る。

若者向けにはスピードがあって良いのだが、高齢者には大変危険なものである。

交差点の信号も大半は“常時左折れ可”で歩行者青でも左折れ車がどんどん来るのでいつ渡れば
良いのかわからない。これらの国では信号のある交差点は危ないと思っておいたほうが良い。

一番安全なのは交差点を避け、信号のないところで左右をよく見て車の来ない事を確認して渡る。 

日本のように携帯や音楽に没頭して、青信号だからといって安心していると事故に会うのは明白。

原則は“ at your own risk ”( 自分の責任/自分の安全は自分で守る )。

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